「「一人の知者は百人の禁欲者に勝る」という。
なぜ一人の知者が百人の禁欲者に勝るかというと、
もともと禁欲者は知識に基いて禁欲するのだからである。
知りもしないで禁欲するわけがない。
一体、禁欲の行とはなんだろう。
それは現世の歓楽に背を向けて、
ひたすら神の御心に順い、
ひたむきに来世を思うことである。
それには、
先ず現世とはどんなものか知っていなければならない。
現世の汚濁と儚さとを知り、
来世の清らかな美しさとその不易不変性とを
知っていなければならない。
それでこそ神の御心に従い、
「どうしたら御心に副えるだろう、
何が御心に副うことだろう」
と努め励むことにもなる。
こういうことが全て知識に基いている。
だから知識なしに禁欲修行はあり得ない。
真の禁欲者は知者であって、
その上に修行者なのである。
ところで
「百人の禁欲者に勝る」
と言われる知者は確かに実在する。
が、その本当の意味を知る人は少い。
ここで問題になる知とは
(今述べた禁欲の基になる知識とは)別の知識である。
それは最初の知識と(それに基く)禁欲修行の後で、
神が特に授け給う知識である。
この第二の知識は第一の知識と修行との成果である。
こういう知識を備えた知者こそ、
(百人どころか) 十万人の禁欲者に勝ることは疑いない。」
(『井筒俊彦著作集11 ルーミー語録』「談話 其の十一 91頁より)
しゅぎょうの
ともなわぬ
ちしきは
ちしきではない
ちしきの
ささえなき
しゅぎょうは
しゅぎょうではない
なあむ