こころ ほどけゆく

眼ある人は盲人のごとく 耳ある人は聾者のごとく 知慧ある人は愚鈍なる者のごとく 強い者は弱い者のごとく

くるしいときのかみだのみ

「常に全てを見ているその誰かとは、
 あらゆる人々をむんずとつかんで離さぬお方。
 災厄(わざわい)の時に遇えば、
 全ての人がそのお方に訴えの声をあげる。
 歯が痛い、耳が痛い、目が痛いといっては訴え、
 疑惑の時、恐怖の時(異本により sakhaufと読む)、
 不安の時に全ての人が心の中で呼びかける。
 きっと聞いて下さろう、願いの筋をきっと叶えて下さろう
 という信念がそんな時には人々の胸に湧く。
 誰一人他人が見ていないのに、災難から逃れたい、
 病気が直ってまたもとの健康に戻りたい一心で、
 彼らはいそいそと喜捨の務めを果す。
 こうして喜捨を出しさえすれば、
 そのお方が必ず受け納れて下さろうという信念が彼らにはある。

 ところが、健康が恢復し、災難が終ると、
 せっかくのその信念はどこへやら。
 またもや不安の妄想が戻ってくる。
 そして彼らは叫び出す、

 「神よ、あの牢獄(災難、病気などを指す)の片隅にあって、
  真心を尽して汝を呼びまつっていた時、
  憶えばなんという素晴しい心境に
  我らはいたことでございましょう。
  何回も何回も
  『告げよ、これぞアッラー、唯一なる御神』(コーラン一一二章一節)を
  飽くこともなく繰り返し、
  遂に望みを叶えていただいたあの頃のこと。

 今はこうして牢獄の外におりますが、
 我らはやはり牢獄の中にいた時と同じように
 切なる願いを抱いております。
 どうぞして今度はこの暗闇の世界という牢獄の外に連れ出して、
 あの預言者たちの世界、光明の世界に入れていただけますようにと。

 牢獄(前記第一の牢獄、すなわち特定の災難や病気など)の外に出て、
 苦しみの状態を脱した今、もうあの頃と同じ至誠真実の心が
 訪れてこないのはどうしてでございましょう。

 訪れてくるものは数限りない妄想ばか り。
 そのような妄想がどんな役に立つのやら立たぬのやら、
 とにかくお蔭で際限ない無気力と困憊(こんぱい)に悩むばかり。
 妄想を一挙に焼き尽すあのゆるぎない信念は
 一体どこへ行ってしまったのでございましょう。」

 神はこうお答えになる、
 「前にも言った通り、汝ら自身の動物的魂が
  汝らの敵でもありまたわしの敵でもある のだ。
 『わしの仇敵でもあり汝らの仇敵でもあるものを
  己が友としてはならぬぞ』(コーラン六〇章一節)。

 この敵を 絶えず攻め立てて、
 牢獄に押し込めておくように努めるがよい。
 この敵が牢に繋がれ、災禍の苦痛にある時に、
 始めて汝の至誠の心が現われ、力を得る。
 何千回も身を以て経験したではないか、
 歯が痛い時、頭が痛い時、恐ろしさのあまり
 つい真心が現われてくることを。
 それなのに、なぜそのように肉体の安楽に
 心を縛りつけてしまったのか。
 なぜそのように肉体の世話ばかりやいておるのか。

  糸の先端(はし)が
 どこに続いているかを忘れてはならぬ。
 常に自分の動物的魂を抑えて、その望みを遂げさせぬようにせよ。
 そうすれば遂には永遠の望みが叶えられ、
 暗闇の牢獄から救い出されるであろう。
 『常々己が魂を欲情 に走らぬように
  抑え通してきた者は必ず天国が終の住居となろう』
  (コーラン七九章四◯―四一節)とある通り。」

   (『井筒俊彦著作集11 ルーミー語録』「談話 其の十三 112-114頁より)


たえがたい
にくたいの
いたみ
せいしんの
くるしみの
かいほうのためなら
なんでもやります

だから
どうか
たすけてくださいませ
きっと
すくってくださいませ

とひっしに
いのりをささげる

ねがいが
とどけられ
いたみくるしみが
きえさると
ケロッと
なにごともなかったかのような
くらしにもどってしまう

くるしいときの
かみだのみでおわらせぬため
ひとはなにができるのか?
なにをなすべきなのか?


なあむ

わたしはわたしをえらべない

「Question: 真我実現(悟り)とは恩寵のおかげですか?

 Papaji: 
  恩寵、そうです、恩寵のみです。
  ヴェーダの聖典の理解と精通、
  ヨーガなどの肉体的努力の結果などで
  勝ち得るものではありません。

  もしそうであるなら、
  誰でも努力次第で悟りえるのです。
  努力だけでの真我実現は不可能です。

  なぜなら、
  真我実現はこの世を超えているからです。
  神の恩寵のみがそれを可能にするのです。

  恩寵には二つのタイプがあります。

  真我の恩寵(Atma Kripa)とグルの恩寵(Guru Kripa)。

  真我の恩寵は内側から、
  内なる真我そのものからやって来ます。
  「私は自由になりたい」という想念が真我の恩寵の顕現です。
  「自由になる!」と決心することが真我からの恩寵の賜物です。
  「真我の恩寵を勝ち得るには山のような功徳が必要だ。
  そうして初めて『自由になりたい』という渇望が起こるのだ。
  これが真我の恩寵の働きだ」と、聖典に述べられています。

  あなたの内なる恩寵が湧き起こり、
  あなたが誰かを顕にしてくれるのです。
  しかし、
  ほとんどの人がこのパワーを理解することができない、
  あなたに話しかけようとしているこの言葉を
  理解することができない、
  真我はあなたの内に存在するという真理を
  あなたに認めさせることができない、
  このような状況では
  真我があなたの言葉を話す誰かと出会うように
  配慮してくれるのです。

  こうしてあなたはグルの恩寵に出会うのです。
  恩寵は常にあなたが真我を探求するように勇気づけます。
  恩寵のおかげで自由への欲望があなたの中に起こり、
  ここまで旅をすることができたのです。

  この質問をするようにさせたのも恩寵、
  質問自体が恩寵です。
  恩寵を超えて、恩寵の他には何も存在しません。
  それはあなたの努力もまた恩寵だと意味しているのです。
  あなたが努力することができる、
  あなたが努力をしたいという事実、
  これらはすべて恩寵の顕現です。
  すべてのことをなすのは恩寵、神の意志だと理解したら、
  「私」は一体、どこに存在するのでしょうか?
  「私は誰か」を見つけ出すという決意が努力の道を選んだことなのです。
  それが真我探求の努力の道です。

  もう一つは「自我の明け渡し」の道です。
  「すべてがあなたの恩寵で成し遂げられることです。
  私はあなたの手の中に私の自我を差し出します」。
  明け渡しのこの態度が恩寵を掻き立て、あなたの面倒を見て、
  真我に連れていくパワーを呼び起こします。
  各自の気質の違いがある限り、各自に適した道を選ぶのです。
  インドでは猿の道、猫の道と呼ばれています。
  母猿が移動し始めると、赤ん坊の猿は
  自分の努力でしっかりと母親につかまっています。
  母猫はどこかに移動するときは子猫を口にくわえて移動します。
  どちらの道を選ぼうと、すべては恩寵の働きです。
  「私は自由を勝ち取る」という決心は
  「すべてを神に任せる」という決心と同じ恩寵の顕れだからです。

 Q: 私たちにそれを選ぶことができるのですか?

 Papaji:
  あなたの気質がそれを決めるのです。
  あなたの気質に反した選択をするなら、それはうまくいきません。
  生まれつきの気質に従うことです。

  気質には三つのマインドの質・タイプ(guna)があります。
  サットヴァ(調和・純粋性)、ラジャス(活動)、タマス(惰性)という
  三つのグナがあなたの振る舞いを取り仕切っています。
  もし、ラジャスが優先しているなら、活動的になるでしょう。
  ヨーガやタントラなど、あなたを活動的にさせることに惹きつけられます。
  彼らは常に「それは私にできることだ」、
  「私はやらねばならない」と考えています。
  これは悪いことではありません。

  95%の世界の人々はタマスの中で生きています。
  彼らは全く霊的なことには触れずに死んでいくのですから。

  もし、サットヴァのグナが優先している人は
  真我実現に焦点があった人です。
  鋭い識別ですべてを判断し、動き回ることなく、
  無念無想で真我を見つけ出すことができます。

  あなたが遺伝子を選ぶことができないのと同じように、
  あなたのグナも選択することは出来ないのです。
  あなたの遺伝子は何千年もの肉体的な再生産の結果です。
  遺伝子はあなたの身体の容貌を決定し、あなたに選択の余地はありません。
  あなたのグナも何千年もの過去の経験から生まれたものです。

  戦士のアルジュナが戦場で戦うのを拒否した時、
  クリシュナは「あなたには選択の余地はありません」と
  はっきりと告げたのです。 
  これがどのように事が運ぶかです。
  あなたのグナも遺伝子も真我実現には何の役にも立ちません。
  しかし、この事実を知っていると、
  不必要にマインドがいら立つことは無くなるのです。
  すべてが神の仕業で私たちには何もできないと理解すると、
  手放し状態になり、すべてを受け入れることが容易になるのです。
  そして、最終的に、

  「私は存在しません。あなたは存在しません。神だけです。」

  という真理を実現するに至るのです。」

  ( SILENCE A JAPANESE NEWSLETTER MARCH 2024 ISSUE
   「 The Fire of Freedom  」 選択の余地はない  )


わたしは
じぶんでわたしを
えらぶことができない

わたしは
じぶんの
おもいどおりにならない

わたしは
おのずから
なるようになってゆく

だから
わたしが
どうなろうと
わたしには
せきにんの
とりようがない

というか

わたしだと
わたしがおもっている
わたしなど
さいしょからない


なあむ

もんぜんのこぞう

「上人は、
 なまけ半分にぐずぐず念仏申しているのは喜ばれなかった。

 そんな人を見て「あんなでよろしいのですか」と伺うと、
 上人
 「あれは丁度子供が柄杓にもとゆいをつけて、
  三味線のつもりでびんびんいわせているようなものだ」、
  「それではなんにもなりませんね」、
 上人
 「いや、ああしているうちに、ほんものを持つと、
  そのコツを覚えるのも、ひとりでに早い」」
      (『日本の光(弁栄上人伝)』田中木叉著「施経遊行」194 頁より)


べんねいの
まなざしは
いつも
おだやかで
じあいにあふれている

はなたれこぞうであれ
えんあるものは
もんぜんにあって
きょうをおぼえ

いつか
ほとけのおしえに
みちびかれゆくひが
おとずれる


なあむ
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