こころ ほどけゆく
眼ある人は盲人のごとく 耳ある人は聾者のごとく 知慧ある人は愚鈍なる者のごとく 強い者は弱い者のごとく
私
< 前の5件
次の5件 >
2024年02月20日
06:00
しぜんとともにいきる
「狩猟民族は
足元の明るいうちに
村に帰る」
(萱野茂)
しぜんと
ともにいきる
しぜんに
いだかれいきる
すくなきを
なげかずいきる
おおきを
いましめいきる
けんきょに
ひかえめにいきる
ゆうぜんと
たいぜんといきる
なあむ
2024年02月17日
06:00
なすべきをなす
今、街はクリスマス一色。行き交う人々は気忙(きぜわ)
しそうだが、楽しそう。「ミッドタウン」
と名付けられたお洒落なビルはイルミネーションに輝く。
そんな東京の街を眺めながら「きれいだなあ。平和だなあ」
と思う。しかし現実は違う。
戦争は止むことなく続いている。
眼前の光景と同じ世界の中で殺し合いが続いている。
ピンと来ない。だが今も誰かが殺されているのは間違いない。
夜だというのに電車は混んでいた。
僕の前に立つ二人が話している。「
ウクライナってどうなったっけ」。「まだやってると思うよ。
それにしてもオオタニすごいね。いやほんと」。
車内の液晶画面には派閥からのキックバックもらった議員が意味不
明の釈明をしている。しかし、
数秒後にはコマーシャルに変わっていた。
情報の洪水の中では「戦争」も一つの「ネタ」に過ぎない。いや「
ネタ」で終わるかどうかは僕次第なのだ。「ネタにされた人々」
は今も殺されようとしているし、ニュースで知った「あの子」
はすでに死んでいるかも知れない。「ネタ」
で済ますことなど出来るはずはない。戦場をさまよう人々、
泣き叫ぶ子どもたち、兵士、瓦礫の中の死者。
彼らが僕を見ている。直接遭ったわけではない。ネットで、
テレビで、新聞で知ったに過ぎない。当然、彼らは「ネタ」
でもなく「コンテンツ」でもない。
しかし、申し訳ないことに僕はそれを「ネタ」
程度に済ませてしまう。彼らに向いた心が次の瞬間次へ向かう。
ワイドショーがガザからオオタニへと「ネタ」を変えるように。
イルミネーションは数日後には姿を消す。「季節ネタ」だからだ。
だが、彼らの「残滓」は僕の中に確かにある。「残滓」
とは失礼かも知れないが僕の中にはそれほどしか残っていない。
僕にとって「残滓」に過ぎない彼らだが、「平和だなあ」
などと呑気なことを思う僕を彼らは鋭く刺してくる。
鈍感な僕でも少々痛みを感じる。
輝くイルミネーションを眺めつつ電気が消えかかったガザの病院を
想像する。暗闇に炸裂するミサイルの閃光を思う。「忘れないで」
「ネタで終わらせないで」との静かな細い声が聞こる。
クリスマスはケーキと同じ。数日で期限は終わる。もはや「
季節ネタ」だ。
しかし元々は人と世界の現実の中で起こった出来事だった。
ヨハネ福音書はクリスマスを「光が闇の中に輝いた」と表現した。
それほど「闇」が深かったのだ。
出産迫る若夫婦を助ける人はおらず馬小屋での子どもを産まざるを
得なかった。大ローマ帝国はすべてを支配し、
ユダヤの王は自己保身しか考えない。宗教は堕落し、
人々は暗闇の中を歩いていた。
そんな世界の現実は12月に限ったこと、つまり「季節ネタ」
ではない。そこに描かれた「闇」は、
ウクライナやガザにまで続いている。
その闇の中でなお生きようとする人の姿、生まれるいのちがある。
そんな現実はクリスマスツリー(季節ネタ)からは想像できない。
「ネタ」で終わらせないために僕は何をすべきか。
闇を見つめるしかない。深い闇の中に自分の現実を見るしかない。
そこにこそ本当の光が宿っていることを確かめたい。
ウクライナで、ガザでなお生きようとする人々を想像しよう。
僕の中にある彼らの「残滓」から痛みと叫びを感じ取るのだ。
クリスマスの街角でそんなことを考えていた。
( 2024/1/05 「ネタで終わらせないために―クリスマスに考えたこと―」
奥田知志 )
わたしは
みるべきを
みているか?
かんじるべきを
かんじているか?
なすべきを
なしているか?
めのまえの
げんじつを
よそごと
ひとごと
たにんごとと
うけとめていないか?
せかいでおきている
あれもこれも
しることにいみはない
じぶんのそばで
めのまえで
おきていることに
かんしんをよせ
ちゅういをはらい
とどまって
かんがえるべきを
かんがえ
おのれがなすべきを
なすことだ
なあむ
2024年02月13日
06:00
しこごひゃっかい
「立合いのスピードを上げるには
四股を一日500回
踏まなければいけない。
最低500回!」
(元横綱旭富士伊勢ヶ濱親方のことば)
よこづな
ふたりをかっかいにおくり
おおくのせきとりを
そだてたあげた
もとよこづなのことばは
きびしいが
せっとくりょくがある
まいあさ
これだけのかずの
しこをふめば
だいちのあくりょうも
たいさんして
しずまって
だいじょうぶの
りきしが
たんじょうして
かんきゃくを
わかせるのも
とうぜんだろう
すもうでいえば
しこ
てっぽう
すりあし
なにごとも
きほんのどうさ
けいこれんしゅうで
すべてがきまっていく
なあむ
2024年02月08日
06:00
いしころとさけをくみかわす
「今から今へ
此処から此処へ」
ひとは
どこかへ
いくことがない
かこにもみらいにも
いくことができない
どこにも
いけないのだから
ここに
いるしかない
いまに
たたずむしかない
ここに
すわって
いまと
むきあって
ひゃくねんまえから
いっぽもうごかず
だまってずっと
まちつづけてきた
めのまえの
いしころと
ともとなり
さけを
くみかわす
なあむ
2024年01月16日
06:00
めざめ
めざめる
ゆめから
めざめて
うつつから
めざめ
わたしは
しんに
めざめる
しんに
めざめた
わたしは
わたしだけの
めざめにおわらず
せかいの
めざめにむかう
なあむ
< 前の5件
次の5件 >
ギャラリー
最新記事
かくごのかいわ
じぶんでつくったく(苦)にじぶんでくる(苦)しむ
わたしのなかに
ぼんのうのこおりぼだいのみず
うちゅうをうみだすひと
じぶんのそば
おそれとあんど
たんじょうびのゆいごん
ほうわ
ふるほん
アーカイブ
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月
2023年11月
2023年10月
2023年09月
2023年08月
2023年07月
2023年06月
2023年05月
2023年04月
2023年03月
2023年02月
2023年01月
2022年12月
2022年11月
2022年10月
2022年09月
2022年08月
2022年07月
2022年06月
2022年05月
2022年04月
2022年03月
2022年02月
2022年01月
2021年12月
2021年11月
2021年10月
2021年09月
2021年08月
2021年07月
2021年06月
2021年05月
2021年04月
2021年03月
2021年02月
2021年01月
2020年12月
2020年11月
2020年10月
2020年09月
2020年08月
2020年07月
2020年06月
2020年05月
2020年04月
2020年03月
2020年02月
2020年01月
2019年12月
2019年11月
2019年10月
2019年09月
2019年08月
2019年07月
2019年06月
2019年05月
2019年04月
2019年03月
2019年02月
2019年01月
2018年12月
2018年11月
2018年10月
2018年09月
2018年08月
2018年07月
2018年06月
2018年05月
2018年04月
2018年03月
2018年02月
2018年01月
2017年12月
2017年11月
2017年10月
2017年09月
2017年08月
2017年07月
2017年06月
2017年05月
2017年04月
2017年03月
2017年02月
2017年01月
2016年12月
2016年11月
2016年10月
2016年09月
2016年08月
2016年07月
2016年06月
2016年05月
2016年04月
2016年03月
2016年02月
2016年01月
2015年12月
2014年10月
2014年09月
2014年08月
2014年07月
2014年06月
2014年05月
2014年04月
2014年03月
カテゴリー
仏 (777)
私 (773)
祈り (903)
命 (315)
悟り (488)
もうろく (23)
笑い (30)
リンク集
maharsinX
American Vedanta
お地蔵さんに手を引かれ
時枝正のホームページ